神倉道楽堂

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【ひねくれた持論】努力という言葉が嫌い

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私は努力という言葉が理不尽に次いで嫌いです。

よく物事に取り組む姿勢において、努力って言葉はよく使われますよね。

そしてその取り組んだ結果にも努力という言葉が左右されます。

  • 努力したから成功した
  • 努力が足りなかったから失敗した
  • もっと努力した方がいい
  • 努力なしで成功なんてあり得ない

結果が良かろうが悪かろうが努力という単語が付きまといます。

そして努力をどれぐらいに積み重ねたかで成功するかしないかの評価が左右される。

理屈としては理解している。

けれど、努力したからと言って必ず成功するわけではない。

たとえ当人が血反吐吐きながら必死になって取り組んでも、結果が伴わなかった時、その評価は『努力が足りなかったね』でお終いです。

それって理不尽じゃありませんか?

こっちは捨て身の覚悟で本気で挑んでいる。

その背景の過程には他者にはそう簡単に想像できないであろう自分の苦悩や葛藤、良いこと悪いことが長い歴史のように積み重なっています。

それが報われなかった時、努力の二文字とその量で推し量られるなんて、ふざけるものいい加減にしろと思います。

そんな単語一つで総評されるほど自分が積み重ねてきたものは軽くもないし安くもない。

それに何より、努力という言葉は物事に取り組む過程で使われるだけで心血を注ぐ自分の力量が緩みます。

人から『すごい努力してますね!』と言われたり、自分で『俺はこれだけ努力してるんだ!』と言った時、それまでしっかり引き締めていた気が少し緩むような感覚になりませんか?

人や自分に『承認』されたことによって安堵してしまうのだと思います。

つまり一種の承認欲求であり、ハングリー精神に餌を与えてしまうようなあくどい水を差す行為です。

その結果、目指す目標に到達できず、努力が足りなかったねの一言でそれまで積み重ねてきたものを一蹴されるように片付けられてしまう。

勿論それは気が抜けてしまった自分に落ち度があることでしょう。

それはわかっています。しかし元を辿れば、『努力』なんて単語で当人を惑わさなければ最後まで気を引き締めたまま取り組めて、成功を収めていたかもしれません。

それが絶対とは言えないタラレバ話であることは承知しています。

けれども努力という言葉で自分の取り組みが他者や自分に承認されて、引き締めていたものが緩むことはあっても、より引き締まるなんてことはほぼないと思います。

努力という言葉はもう一歩上へ上がれるステップがあるのに、その存在を濁すように今のステップで満足させて妥協させてしまう魔力があると思います。

努力という存在は否定しない。必要であることも理解している。

けれど努力なんて言葉の本質は、人を妥協させてダメにする悪影響を及ぼす単語だと考えています

好きなことに取り組むのであればそれは『趣味』であり、やりたくないけどやらざるを得ない物事は『苦労』だと認識しており、努力なんて言葉の居場所は絶対に作ってやりません。作りたくもない。

努力という言葉はそれだけ自分の真念を、自分の力を鈍らせます。

自分がやりたいことを目指して物事に取り組むのは決して努力ではなく、

好きだから理想を目指して苦労している』のだと自分に言い聞かせています。

努力なんて言葉を使うと、頑張っている自分に酔ってしまい、それまで引き締めていたものが一気に緩んでしまうから。 

だから私は努力という言葉が嫌いなのです。